2018年4月8日日曜日

がん桶

がん桶  山口 保 久子さん
  
がん桶って、紙切りがおって、立派に切って、  結局、座って葬って、神輿みたいに、四人で釣ってね。火葬場に持ってった。
おいぼう、甥っ子4人でおってった。

火葬場がないところは、せんだんぎって、割れ木を積んで。すると、焼け出すと、ぴゅーっと伸びる。暴れる人にになると、焚き物積んだどころから落ちるわね。こおれは、だめだって、みんなで死んだ人を、ひきあげる。

台から落ちた。にょーって。どよめく。生きりかえしてしまうんで、気持ち悪いで、みんな逃げた。

酒飲んで、酒飲んで、焼いた。
 
甥っ子が焼くようになっとった。おじさんとかおばさんとかを焼く。そいで4人。兄弟でなけりゃ、また、他の兄弟から来て焼いて。

おばさんを焼いたときは、おんなじ兄弟ばっかで四人で焼いた。今夜飲もうかや。
重油のバーナーも春日中で一番やったよ。気持ちよくないで、酒飲もかいと。俺ら4人で日本酒二升。それから、ビールを五、六本。みんなあきれて。まだ、足らんもんで。

酒飲んで酒飲んで。酒飲んでやらんと、きたねえし。焼いとって臭いし。

うちの方は重油バーナーで何十年。他の方の部落で、焼くのがないと、材木をタテ、ヨコに1メートル、2、30積んで。その上に箱に乗せたおじさんとおばさんをちょこんと載せて。そのうちに、上のがんおけがはぜて。にょーって。おい、暴れたぞお。落ちてまうと、焼けせんで。みんなで、棒で、おい、やって。

おいぼうは兄弟の上から上から四人とられるもんで、上だからやらなあかん。下の方で番が来んで、やったことないで、やってみたいという人もいた。
重油のバーナーのセールスもやっとったことあるで、焼けんで来てくれ、というと、素人ばっかでやるもんで、火をつけたらはぜた、と。そりゃそうだ。バーナーあけて火つけんもんで。煙ばっかで。そんでも、重油だらけで、火をつけたら、それははぜるわな。死んでまうぞ、って怒った。

どんだけやらせられたか。

50年前の山男 山口 さん 

滋賀県の高島郡に何十年前、三十歳代に行っておった。滋賀県の造林公社に、公社が用意してくれた古寺に寝泊まりしとった。美束二人で行ったっところに、五人ぐらい中山の人が入り込んできて、お堂の中に寝たんだ。みんな。賑わしなったでよろこんで。五時には仕事に行く。
 
猿の大群がくると、猿ぼうかやって言うと、両方でぼうる。100匹ぐらいの群れが来よる。木で倒す。地元の人が、そんなことをしたら、絶対あかん、絶対あかんと。

それがね。山肌でね、仕事をしとると来るんじゃ。1週間おきに来る。1週間経ったで猿がくるぜや、と言うと、ほらほら来た来た鳴きだしたって言うと大体一週間でまわって歩く。
仕事してる上に来るとね、木をゆさぶったりなんだりして悪さしてくるの。そのかわり俺ら仕事してる下へ来るとね。そこそこっと行ってまう。そりゃ、下ならぶつけられると。上ならぶつけられないということわかっとって。夕方に来ると、今夜はここで寝るなってわかる。行かへん。朝いってみるとちゃんとおる。昼間きたやつは、おらん。夕方来たやつは、朝行ってみるとちゃんとおる。猿は人間さんと同じ夜行性じゃないな。

上に来たときは、騒いで、騒いで木をゆさぶって。100匹ぐらいの群れが来るんだ。
白谷のスキー場の真向かいやっとったんじゃ。

あっちの人は親切だった。遠いところを仕事へ来て下さったんやで。ビールを5本ぐらいもってね区長さん、来てくれた。お寺に泊まってると、お風呂に入ってくださいと言ってくれる。行くのいやなんやね。若いで。じゃんけんして負けたものが行く。沸かしてくれるんやね。でも、若いときはいやなもの。ジャンケンしては行ったもんだ。三年ぐらい行った。

堅田温泉の温泉で遊びにいった。あんな、金もうけたことはない。1日4万円、50年も60年も前にその金額。

お堂に寝とると、仏さんが、見るやろ、二人で寝とると、仏さんが水晶玉かなんか入れてる、立仏がギローって、懐中電灯で照らすと、気持ち悪くて気持ち悪くて。
 
下刈りで木を伐って、県事務所が良い仕事やるんだで喜んでくれた。小宮神、川合からも何十人と。春に呼び出されていったら、去年、植林したところ怒られると思ったら、お聞きしたい、これお目玉くらうと思って、粗末の植えしたって言われへん。
おそるおそるしゃべる。何千本ってうえた檜が枯れてまったが、活着悪いで、春また植えなおすが、あんたんとこは、ほとんど枯れてませんでしたって言う。うれしかったけど、植え方を教えてほしい、って講師に行ってほしい。
笹原の上に植えたのに、まじめ腐って、ほどいて植えた、それが悪かった。そんで、あかん、熊笹の根がきれてあがると乾燥する、根付きをせんうちに、何千本って枯れてまった。俺らは、えれえで、掘って植えるのはやらなんだ、一二三で、一本植えた。早いのなんの、並んで。一は鍬をたっと山へ、二はひっぱる、三は背中におんどる苗を入れる。かけごえで、鍬は刃物ほど切れるほど研いだる。えらい。ごっとおこしたらドン。ほしたら、おこしただけで、泥で入れたるもんだで、そいで足でばんと。乾燥せんのじゃ。もともの地山と同じじゃで地がはった。

一二三で植えたって言われせん。次の仕事もやってください。堅田温泉の上の方の山の中。遠い、こんなえらいところ、どうにもならん。50ヘクタール。たいした仕事じゃ。半場つくってもらってお風呂つくってもらってうけた。単価をようくれた。比良さんの上の方だ。ところが、木が伐ってしまってある。三分の二ぐらい、植えるだけでよかった。これはもうけたと切り株に座っていたら半日ぐらい経っておった。

役所からの金をみんなで分けんならん。木の本のお宮さんで分けた。ほしたら、だれや知らん、警察に通報したおのがおる。そりゃそうだ。社の拝殿に行って、お前、5万円、お前、食費ってわけとった。そしたら、それを誰かが見て警察に、泥棒がおる。そしたら、警察が来てまって。どうにもならん。あやしい金じゃない。岐阜県から来たもんじゃと免許証も見せて。それ何十万という金をびらびらと通報されて。高島の県事務所の人に電話したら、失礼しました、って警察謝って。
 
まあ、えらいで、敦賀の峠、国道8号線を行って飯食って帰ろうかやって。そりゃそうだ。山仕事で、口ひげはうざうざ。何軒もあったの、食堂がね。これが一番よさそうなところだって。ごっつお頼んで。ほしたらさ。いつまで経っても、ごっつぉ作ってくれん。俺と他の人たは、ピンときた。これはな、俺らな、こんな汚いかっこでおるで、お金もっとらんと思って、つくらん。一つ仇うとうかということになって、どうするじゃ。見とれ、俺がいの一番に出掛ける。

飯代をは払わんと思って、つくらんで。ガムちょうだい。50円。ガムはくれる、飯はくれないでも。1万円出す。そりゃ、びっくりするわな。金もっとらんと思ってつくらなんだ。50円のガムに1万円出して。あわてて、作り出した。

こんだけで、俺ら、済まさん。いくら、汚いかっこしたって、そりゃそうだわね。1週間でも汚い山男。せんたくもしとらん。おい、お前の番だ、ガムかって来い、そいつらもピンと来て、ガムちょうだい。また、1万円出して。

そしたら、向こうの人が右往左往しだして、飯は作らなんだと腹があるじゃろ。謝るに謝れん、ほしたら、まだ、1人あった。また、ガム、お釣がない、こらえてくれませんか。いくらその当時、峠の茶屋にお釣が無かったぐらいじゃ。三人目行ったら謝った。頼む、こらえてくれんか。それ、俺ら、どざまみやがれ、って飯食って。
 


2018年3月15日木曜日

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。

「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」

 折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、惟喬親王伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。
 

木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。惟喬親王は清和天皇の兄弟。父は文徳天皇となっている。朝廷の争いから逃れた親王は父文徳天皇が与えた重臣をしたがえて都を離れ、滋賀県の君ケ畑に居を構え、轆轤を発明する。

 木地師が持っている掛け図には二つの型があるが、筒井八幡から出しているのがほとんどで、君ケ畑の大皇大明神の別当格の金龍寺の出しているものは少ないというが、折口によれば小宮神にあるのは少ない大皇大明神のものということである。

 
「木地師のお墓が小宮神にあるんだって」こんな、質問をしてみた。山口久子さんは、「ああ、あれだ」と二つ返事。しかも、木地師のことなら何でも知っているという、小宮神の藤原重行さんにすぐに電話してくれたのだった。

 藤原の家まで久子さんが案内してくれたが、小宮神は湾曲する川の近くにある。本当に、ごちゃごちゃと並んだ集落の中で、家はひしめき合うように立っており、その路地にりっぱな石碑がある。門は君ガ畑で見たものと同じである。
 
 しかし、惟喬親王の墓とは書いていない。「文徳帝皇子の惟喬親王の臣たる我等の祖」
先祖は惟喬親王の臣であることが、藤原家の墓の側面に彫られている。

 藤原重行さんは95歳。系図や、木地師のろくろを見せてくれる。訪問者も多いとのこと。系図は床の間に飾ってある。折口の言うように「彩色をした極新しいもの」である。中心が惟喬親王で、臣である藤原家の先祖藤原定勝は、系図の左下に見えている。

 

 

 藤原さんに先祖が小宮神に行きついた伝説を語ってもらった。朝廷の争いから逃れ、父文徳天皇が与えた重臣をしたがえて都を離れたところから伝説は始まる。
 
 
 「惟喬親王さんが重臣とともに鈴鹿峠へ逃げた。山のてっぺんに大きな池があって、池の端でお椀をつくっていて、のみでかんかんと。こいつはえらい。何か良いこと考えないといけないと4年間かかって親王さんは、轆轤をおつくりになった。
 藤原さんの先祖である石位左衛門(藤原定勝)は年が若かったので、日本中に轆轤を教えに歩いた。

 山を歩いていると、どこに木が生えているかわかる。伊吹山と西と東ではちがうわね。東側は日があたらないね。滋賀県は、楢材や栃、ブナの木でお椀をつくった。

 藤原定勝が笹又(春日村古屋)でなら一代暮らせると思っていると、先住民が来てね。「雪があると、下にいいとこ探せ」と。下へ行ったら、ここだけあいとった。惟喬親王がはじめ落ちていったところと同じような池があった。そこに親王をまつって、先祖さんは館をつくった。

 しかし。小宮神の藤原は威張り過ぎたのだろう。明治維新で土地が住民に分け与えられたのに、小宮神は何ももらえなかった。中央は、水田もないところで、栃の実で生きてきたのに、その栃の木を手当り次第、片っ端から切ってまうでね。恨まれても、恨まれても。今でも小宮神ってところはあわれなもの。

 木地師は木地をやる人と、京都へ運ぶ人とね。1000年も前のこと。親父は炭焼き。自分は満州。昭和14年からだ。引き上げても要領の良い人は、土地がもらえた。進駐軍が引揚者にあげた。小宮神は全くない。満州から引き揚げても手当もなくて、炭焼き、丹波、京都の奥に。それから商社に見込まれてこの土地に工場を建てて経営した。」


 惟喬親王はお上の山だということで、それで生活していた栃の木を伐ってまうんで、村からは恨まれていたーーと言う藤原さん。
 
 「小宮神の下の平だけもらって、一番下に住む人が一番古い。用水がなくてね。上から壁伝いにくる水を使った。上に上がるとええ平でね。ど真ん中に池があった。東の方がやや高く、北の方が落ちていた。落合って書いてね。それがまったいらになったるで、池になってね。それも恨まれて、何年もかかって川から運んだジャリで埋められたと聞いた。昔のこっちゃ。」

 小宮神は明治14年になって初めて自分の寺をもった。この辺りの東本願寺の寺では教如上人を偲ぶ五日講というのがあるが、小宮神は入っていない。


 「小宮神ははじめお寺がなくてね、香六の寺にまいると嫌がられて、雪の降った時も中にいれてもらえなかった。どこかお寺をつくりたいと言ったのに、香六の村長が小宮神を憎んでね。もしつくるなら、長男だけ門徒にして、あとは、香六の門徒にしろとね。できんことの条件出してきた。どうしても建てたいなら、香六に金300円を出せとね。借金でね、親父が兵隊から帰った時の手当でやっと返し終わった。
 寺が出来たのは明治14年。光永寺。ここに文書がある。写したんだ。」

 山から山に渡った木地師が、土着の過程で経験した話だろう。木地師は小宮神の土地を探して下から住みついた。壁から流れる水を使い、他の村のお寺を利用した。栃を使うので憎まれた。

 藤原さんは建立の経緯を文書に残してある(その経緯は別に述べたい)。

 

 これは、満州から送った木彫り。イタヤの木があってね。日本に送った時、前につきだした手が折れていた。
 


 
 
 

2017年12月4日月曜日

 「うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、
 「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。
 教如さんの岩屋※1があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合※」との話を聞いた。
 教如上人史話 「駒月巌 郷土史話より」で、教如堂のことが詳しく載っていた。

 「教如上人の春日村に於ける話は僅かに四百年前の史話であるので比較的事実が伝えられていて、教如上人自画像に依る八箇寺の五日講だけは毎月行われて来ている。しかし教如上人の旧蹟である國見岳の鉈ケ窟は村人さえも見に行く人もなく、荒れ果てて何処にあるやら知る人も少ない状態になっていた。昭和十年(1935年)春の頃、時の村長駒月巌は村會議員古田粂之丞(くめのじょう)を案内として、國見岳中腹にある鉈ケ窟の内大鉈ケ岩屋と小鉈ケ岩屋を実地調査した。
  上にある大鉈ケ岩屋の中には史実に伝わるお枕石やお机石又、お高座岩などがあって、これこそ眞の鉈ケ窟であると断定した。直ちに小学校の高等科児童を引率し登山して、岩屋の中の土砂を掘り出し周囲を整頓し岩屋の中には駒月巌所有の阿弥陀如来像を佛壇に入れて安置した。古田幹寄附の半鐘を吊るして漸やく鉈ケ岩屋は教如上人の旧跡らしくなった。しかし斯かる深山幽谷では参詣の人も難儀するので、念佛掘りと称して毎月尾西から鉈ケ窟までの参道の改修を行って、女子や子供なども容易に参詣出来る様にした。
   揖斐駅から尾西山の鉈ケ窟までの間に約百枚の板札を作って、道端に教如上人岩屋への指導標を吊るして歩き、一方では岐阜日日新聞紙上濃飛十名勝地の投票に参加して、村民も協力して投票を行い遂に四等に当選した。直ちに時の岐阜県知事であった宮脇知事に揮毫してもらって、三河の御影石で『濃飛十名勝地教如上人窟』の十一文字の石柱を作り上げて今も残る尾西の白山神社前に建立した。
  次いで駒月巌村長や発心寺住職駒月善照や山田兼太郎、古田幹等が有志団結して、揖斐郡、本巣郡、不破郡の三郡下を歩き回って、教如上人伝を演説し教如上人窟を宣伝して寄付金を募集した。尾西と鉈ケ窟までとの中央の地点で古田幹氏所有山林の大谷平を切り開いて、春日村民の有志全員の念佛掘りで敷地を作り、市場矢野鍬太郎請負で教如堂を建立した。
本堂は畳二十四畳敷に硝子戸、雨戸を建て、小座敷は畳六畳敷に床の間、押入れ、便所を附設して落成、続いて八箇寺の住職を招いて教如堂の落慶式の供養を行った。堂守を探し、其の庫裡のために発電所の不要住宅一棟、畳、戸、障子や唐紙など総べて寄付を受けて、寺本兼太郎方まで運搬して保存してあった。しかし堂守の適当な人もなく此の一棟を建設する力もなく其の儘となる間に影も形もなくなって、僅かに屋根のトタン板だけ残って学校に用立てたのみであったのは残念であった。
  教如堂の出来たころには、教如上人御旧蹟の名が高くなって、愛知縣や大垣市、不破郡などから団体参拝者もあった程であった。駒月巌は、教如上人御旧蹟御由緒記と云う四十頁に亘る写眞入り冊子を参千冊作って、参拝者に無料贈呈し、名産として教如酒を売り出した程であった。しかし年月を経ると共に参拝者も少なくなり、堂守がいないために教如堂も雪や雨に叩かれて破損し、教如上人窟の鉈ケ岩屋への参道も荒れ果てて、維持の方法もつかぬ有様となった。今では教如堂の本堂や小座敷も寺本六社神社境内へ移築して、農業共同組合の事務所と宿直室となっているのである。(県道寺本尾西間の拡幅工事で、農協の建物も合わせて取り壊されている)
  駒月巌氏は、縣会議員や村長など多数の公職を持って非常な多忙の身をも顧みず、教如上人御旧蹟保存会長、教如上人五日講後援会長を熱心に継続して、千疋山に教如スキー場まで作って宣伝に努めたのであったが、年月と共に漸次衰退して今日に至った次第である。       
教如堂近くの岩屋 鉈が岩屋ではありません。

案内地図

樋渡瀬と美束散策地図を作ってみた。

樋渡瀬は淀廻から品又へ。蛇行するカーブが目印である。
むつしは焼き畑という意味である。丈畑、むつし、深山という分類があるようである。
勇次郎新田は、勇次郎氏が山の中に開墾した田んぼである。馬も飼い、立派な小屋もあったということであるが、丈畑の中に田んぼを開墾した勇次郎氏の努力やいかに。現在は植林がされているが、それでも5枚ほどの水田跡を見ることができる。

平鍋、鈴谷、火越峠という鉱山を思わせる地名がある。
猪首とは、追い込まれた猪がかならず現れる場所であるとのこと。

2017年11月25日土曜日

足跡

 かべや谷に炭焼きに行った。雨降りにね、うさぎの踊りを見たことがある。小屋で飯を食ってて、何か来たと思ったら、後ろ足でピョンピョン、ピョンピョン。前足あげてピョンピョン踊りだして、一匹。

 かべや谷では熊もしょっちゅう見た。子連れまでぶつかったことある。親があわてていってまう。荷物を置いて、3メートルから4メートルの下の川で顔を洗ってて。俺の荷物のそばで熊がひょん。これはどうしようと見てたら、親がひょこひょこ登っていった。うり洞。それから、子が後からついていった。100メートルぐらい行ってから、うおーっとよばった。それまでは呼ばらなんだな。

 そしたらあくる日、炭焼きしたところから横をとことこ歩いていった。

 川の中にボタボタ木を入れて、上から見とった。誰じゃしらん、魚釣りか来やがったか、俺においともいわんと見ていたら、川の中に熊がおる。こりゃ、やばいと思って。

 うさぎは、なくよ。捕まえるとギャーっとね。

 うさぎは狐に追われたって、下へは降りて行かん。後ろ足が長いで、捕まってまう。山の上に上って行く。うしろ足で飛んでく。漁師の犬でもね。途中まで負うとあきらめてく。下へいったら、つかまる。
 雪山なんか見とると、きつねにぼわれたあのやろう、助かりゃいいと思っていると、雪の上で身が軽いでね。上手に。チョンチョンパタン。チョンチョンパタンと。

 あまごは3年、あゆは1年。ますは10年。
さんしょう魚はこの辺りでは、10センチぐらいにしかならない。なめらかな肌しとるで。冬は葉っぱの中でも冬ごもりをするかしらん。
 
 あゆは、昼間は早いけど、夜の2時ごろは寝てるでそこを狙うと釣れる。

 

 

 


大木を伐るということ

          

 
いまの中電はね、1000メートルばかり電気引いて下さいって言ったって。いやと言えんのやで。
 でも、その当時はね、下の部落から電気引っ張って来にゃならん。美束中で40万円いったんじゃ。ほったところが、昭和22、23年に金がなかなか出来へんのやし。だから、お宮さんの木を伐って、売ったんや。どこのお宮さんの木も伐ってまって。
 やったところが、神社庁に言わんでやったということを悪いことだと駒月巌が投書したんじゃ。神社庁から来た。木の切り株あるでわかるわな。40万円負担金で出して、電気は来たんだが、また、罰金40万円かかった。
 払わんならん。右往左往。集落があの当時200件ぐらいあった。電気の40万円はお宮さんの木で出来て良かった。結果的にはあと罰金の40万円つくらないかん、ほうでしゃあないで、境内の木は神社庁の管轄であかんので、境外の木を伐ろうということになって、それを伐った。


駒月巌は、村の人が木を伐ったことについて、ただならぬ思いがあったようである。郷土史話では、次の話を収録している。

郷土史話 九曜星の袈裟(けさ)と尾光堂(おこどう)の橋    駒月巌 小寺四郎原典
  
  美濃國池田郡糟河郷種本村、詳しく云えば濃尾平野西に尽きる処、揖斐川の支流、粕川の源、普く天下に知られた風光の地、伝説と落武者の別天地美束の安土にある尾光堂の橋と云うのがある。さらさらと流れる谷川の水に、純白の飛沫を上げて五つに折れた花崗岩の石橋の残骸を見る。雪の朝はつつましく綿帽子をかむり、春は花の香若葉の香、夏は新緑河鹿の声、秋満山の紅葉映えて幾十年、人の眼に物の憐れを訴へたことであろう。
 この地は往時大垣藩戸田釆女正の所領であった。発心寺住職道悟は、一世に聞え再々其の藩公に拝謁し知遇浅からぬものがあった。その教えたるや心を治め、家を治め、人を治め、國を治めしむ、眞如一和の御佛の大寶悦のあふれるものがあった。藩主氏鉄公より九曜星の戸田家御定紋入りの袈裟を賜わったのは無上の光栄であった。
 当時、戦国の後を受けて村はどん底に疲弊していた。偶々尾光堂橋架け換について、それに要する材木が村中に一本も無く、庄司小寺左衛門二郎も住職の道悟坊も手の施し様も無く頭を痛めていた。 或夜、発心寺の庭で何事かひそひそと語る二つの影があった。四つの眼は遠く尾光堂の橋を見つめていた。やがて静かに村の家々の灯りを見渡して、それから振り向いた二人の顔はニッコリとした様であったが、又、急に何事か難しそうな一種悲愴な気に満ちた。庄司と住職との月に照らされた横顔は、月のせいばかりでなく蒼かった。
 次ぎの日、種本村の家々へは至急相談致したき儀あり、庄司宅まで集り候へと云う觸れがあった。庄司は、鹿の角に大小を架けた床の間を背に道悟坊と並んで村人皆の集まって来るのを待っていた。
 やがて庄司が尾光堂橋架け換の事で談を始めた。用材には峠の大檜を伐ってくる事、今夜夜道で行くことなど申し渡された。村の衆は、「峠の大檜を伐るって・・・・・」と皆眼を見合した。「責任は庄司の小寺一家で引受ける、老も若きも皆力を合せてやってくれ」と申し加えた。
 其の夜峠の大檜の下で誠に奇妙な作業が行われていた。何十組も、藁縄で編んだもっこで担いで盛んに土を運んでいた。峠の大檜とは、隣村池田郡北山郷日坂村と種本村との境で稍日坂村に寄った所に生えていて長い年月、峠の大檜と皆から愛でられてきたものである。エッサエッサと運んだ土は大檜の北側、つまり日坂の方へどんどん盛り上げられているのだ、折柄東山の槍ヶ先から昇った鏡の様な月影を踏んで、誰もしわぶき一つせずに一生懸命に隠密作業は続けられた。影法師の影が小さく足許に鍬の先に吸いこまれる様に、眞上から月の光を浴び、庄司は初めてお月様を見たらしく「よい月じゃもうよかろう」と云った、この時峠の稜線(分水嶺)は大檜より北に移動していた。
 誰か水を、水をと云う声に、一同の喉はカラカラに渇からびていた。孟宗竹(たけ)で造った太い水筒が次々と廻されて音を立てて呑んでいた。誰かが次に廻す時、水筒を落して、その弾みで水は地面を低い方へ流れた。庄司は「皆の衆大檜の下の水は種本村へ流れるのう、種本村の大檜じゃのう」と云った。それから一里半の夜道を運び出され、夜明け方には尾光堂橋は架け換えられていた。あの峠の大檜で・・・
 峠の大檜が無くなったので日坂村の庄司高橋伊宮以下村人は大立腹であった。種本村庄司と立合談判をして大檜を取り戻そうと云うことになった。
 庄司の伊宮は「道悟の奴が九曜星の袈裟を掛けて来ると事面倒じゃのう」と村の衆に云いながら種本村へ押しかけた。種本村では庄司小寺左衛門二郎が折目正しく大小を帯びて一同を迎えた。村の者は庄司の三尺二寸の大刀をはらはらして見ていた。そこへ道悟が藩公恩賜の袈裟を掛けて出て来て、日坂村庄司の前で「衆生済度の為この道で御座る」と頭を下げた。日坂村の庄司は「ううむ、衆生済度の為、ううむ、皆の衆帰ろうぞ」と、くるりと後ろ向いて村の者を連れて帰って行った。たつた一言「事面倒じゃ」と云ったきりであつた。
 しかし、日坂村の向う見ずの一鉄と云う男、腹が立ってたまらず、一人で其の晩、尾光堂橋を切って落した。知った庄司伊宮は、「一鉄、何と云うことをでかしたぞ、たわけめが、事面倒じゃ、お上の掟に従えば十里四方の構え人(領外追放)じゃが、今夜の内に村を出て行け處構(ところかまい、村外追放)じゃ」と、やむなく一鉄は永い草鞋を履いた。
 庄司左衛門二郎と道悟坊とは「無理はあかんのう、こんどは皆で堅い橋を作ろうのう」と、それから江州曲谷村から石屋を呼んで御影石で見事な橋を架けて「末代橋(永久橋)を架けたなあ」と、三日三晩踊り且つ唄って喜んだ。
 それから二百余年、村の自慢として恩恵を受けたが、慶應2年(1866年)の水害で空しく昔の物語りとなった。
 昭和34年(1959年)の秋、美束地区に古今未曾有の被害をもたらした伊勢湾台風によって、正面谷の奥、瀬戸の山崩れで谷が大荒れし、尾光堂橋付近は川床の岩盤を表すまで流され昔の面影を偲ぶものは全て無くなった。
              
         

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